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エッセイ〜月刊「百味」にて連載中〜

一本のバラの魔法 [月刊百味 : 2008年2月号掲載]

レストランでの想い出・・・。誰しも一つや二つはあるのではないでしょうか。 2月14日といえば、「バレンタインデー」ですよね。日本では、どこもチョコレート一色、うっかりその日に男性と会う約束をしてしまったら、チョコレートを渡さないといけないような・・・そんな雰囲気すらあります。そんな女性が男性にチョコレートを渡すのは、日本だけの習慣って知っていましたか?
もともと「バレンタインデー」の発祥地はヨーロッパでした。その昔、キリスト教の司祭であったバレンタインは、不毛な結婚を禁じる法律に反して、不遇な恋人達を結婚させてしまったために、捕らえられ2月14日に処刑されてしまいました。恋人達のために尽力したにもかかわらず、殉教してしまったバレンタインを聖人とし、聖バレンタインの没した日にちなんで2月14日を「聖バレンタインの日」としたのでした。そのため、キリスト教の国々で、この日は恋人たちの日となっていったのです。
ですから、ヨーロッパではバレンタインデーは、女性が告白する日でもチョコレートを渡す日でもなく、男性も女性も、お花やケーキ、カードなどの贈り物を、大切な人同士で交換しあう日なのです。最近では日本とは逆に、男性の方が女性に贈り物をする日、といった風潮も見られるくらいです。

パリに留学して間もなくのこと。バレンタインデーに、友人4人でとあるレストランで夕食の約束をしました。一緒に来る男性は一人、でもここはパリだからチョコレートはいいよね、と思いながらレストランへ。案の定、だれもチョコレートは持ってなく、良かった!と思っていると、そこへ花売りのおじさんが真っ赤なバラをいっぱい抱えて入ってきました。パリではよく、花を何十本も抱えた花売りのおじさんが、ビストロやレストランに突然入って来ることが、しばしばあります。日本にはそういう風習がないので、この時初めて見た私は、何事かとびっくりしていましたが、一緒にいた、ただ一人の男性だったフランス人の彼は、「バラ、どう?」と勧めてくる花売りのおじさんから「じゃあ3本。」と言い、女3人の私達に一本ずつ、深紅のバラを差し出したのでした。それまでは普通のフランス人の友人だった彼が、急にキラキラ輝いて見え始めたのは言うまでもありませんが、私は、花売りのおじさんが普通にレストランに入ってきて、男性がその花をたった一輪買って女性にプレゼントする、そんな素敵な風景が普通にレストランで行われていること、その自由さにちょっとした感動を覚えました。
周りを見ると、その日はバレンタインデーのせいか、女性はみんなバラをテーブルに置いていました。私達3人は、「義理チョコ」ならぬ「義理バラ」でしたが、フェミニストの国フランスの、素敵な一面を見た忘れられない夜でした。
 レストランには様々なドラマがあります。ドラマは、その席に座る前から始まっていて、同じ一皿でも、想い出は千差万別です。
私がパリのレストランで気付いたこと、それはBGMでした。すべてのレストラン、とは言いませんが、多くのレストランでは音楽が流れていないのです。日本のレストランでは、かなりの割合でクラシックが流れていることが多く、職業柄、食事をしていてもついついそちらに耳がいってしまうのですが、パリに行ってからはそういう機会が少ない事に気が付きました。そう感じてから、レストランで注意して観察していると・・・周りのフランス人たちは、本当によくおしゃべりをしています。おしゃべり好きな人種なんだとは、日ごろから感じていましたが、その時私は「なるほど、来た人のおしゃべりがBGMだから、あえて音楽は必要ないんだ」と、納得したのです。おしゃべり好きの彼らの頭上で、その日の気分を決めてしまいかねない、ベートーヴェンやブラームスが鳴っていては、肝心の話が散漫になってしまうのでしょう。料理も音楽も好きな彼らですが、好きであるがゆえに、同時にはどちらも楽しめないのですね。どんなに手間隙をかけて芸術品のような一皿を作っても、どんなに素晴らしい調度品で飾っていても、レストランでの主役はお客様であり、そのお客様が居心地良く楽しんで、それぞれの想い出になって帰っていけばそれでいいのです。
 コンサートもそうだと思います。主役である観客が、その時心地良い眠りを感じたらそれは子守唄になり、音色から敬虔なものを感じれば賛美歌になり、愛を感じればラブソングになる・・・。
レストランには、決まったフォークとナイフを使う、グラスはこれ、など基本的な決まりごとはありますが、あとはお客様の自由に、というのが本来のレストランのサービスだと思います。クラシックのコンサートも同じで、基本的なルール以外はもっと自由に、肩の力を抜いて、それぞれの楽しみ方で過ごしてみると、きっと風景が変わるでしょう。音色から、疲れている人には癒しを、悲しい事を抱えている人には安らぎを、幸せな人には喜びを、聞いている人それぞれにとって心地よい想い出となってホールを後にする、それが音楽の力だと思います。
今年の「聖バレンタインの日」には、一本のバラがくれた素敵な想い出を、上回るような出来事に出会えるでしょうか…。